この世界では、”言葉”が魔力を持つ。

この子の七つのお祝いに

(火津彌)

〆鯖/火津彌 > 【この子の七つのお祝いに:前編】献燈の薄暮が迫る昏れ六。透き通る鬼灯のような朱色の提灯は、これまた丹色の千本鳥居を照らして楼門へと続く。まるで花街のように妖しく緋いこの景観こそが名物やと、罰当たりな誰かが口にする事もあるここは鬼灯神社……僕、尊華帝國軍佐官火津彌の「家」や。兵舎から歩いて数十分、参拝を済ませた僕は鳥居を抜けて本殿の方へ振り向き、胸元に軍帽を抑えたまま深くお辞儀をした。ぽつり、と旋毛に水滴が落ちる。ぱた、ぱたと肌の露出している部分に感じる小雨にふと天を仰げば、叢雲に隠される事なく、まだ昼下がりのような顔をした白い月が朧げに輝いていた。「狐の嫁入り、か。」誰に言うでもなくそう呟いた。思い起こされるのは僕がまだほんの小僧だった頃。そう、六つの時やった。……長い追憶になりそうや。   (6/2 16:36:51)
〆鯖/火津彌 > 伝統的な雰囲気が残る中、景観を損なう無骨な建築物が入り混じり秩序を欠いたこの街は、この頃から小気味の悪い静けさを持っとった。嘗ては美しく榮えていたという厘都。その歓楽街に構えられたとある娼館「紅玉楼」に、僕は産まれた。幸か不幸か、男に生を受けてしまった僕はいつかここを出る事になる。戻ってくるべきではない場所へ里心のつく事が無いように、母親が誰なのかは知らされていなかった。それでも、誰が自分が母親なのか、探らずにはいられなかった。   (6/2 16:37:15)
〆鯖/火津彌 > 椿姐さんは紅玉楼の御職、稼ぎ頭やった。姉御肌で、遊女たちからの信頼も厚く、僕にもよう世話を焼いてくれたもんやった。しかし同時に厳しい人でもあり、僕が椿姐さんに甘えんとしようものなら、鋭い言葉で牽制された。「月光、一つ教えといたるえ。おまえの母親がこの御職だなどと思い上がった考えはおよし。」冷たく突き放された後は、必ずさりげなく慰めてもくれた。椿姐さんによう懐いとった瑞穂姐さんを遣わして、いつも串のついた鼈甲飴を僕にくれたのを、よう覚えとる。   (6/2 16:37:40)
〆鯖/火津彌 > 椿姐さんが僕の母さんではないかと思ったんは、六つになったばかりの夏の事やった。「七つまでは神のうち。せやけどな、そのうちこの楼の誰かがおまえの筆下ろしをする事になるのやで。」灯りのない暗い布団部屋で、瑞穂姐さんは僕に囁いた。白粉の香りに頭がくらくらして、取り憑かれたように僕は小さく頷いた。「初めては誰がええ?」産まれて初めて自分に向けられた甘い声色は幼い僕を誘惑するのではなく、得体の知れない畏怖を植え付けその場に動けなくさせた。赫い蹴出しから伸びる白い足袋が僕の着物の裾から侵入しーーいや……すまないが、これは割愛させていただく。とにかく、自分の身体であるのにも関わらず、僕は何も知らなかったことを瑞穂姐さんに教えられてしまったのやった。何回かそういうことがあった後、僕と瑞穂姐さんの関係に最初に気付いたのが椿姐さんだったというわけや。「月光をおまえなんぞに関わらせるんやなかった。」低い声色で呟き、瑞穂姐さんから庇うようにして僕の肩を抱いた。あぁ、きっと母さんとはこういうもんなんやろうな、と思ったんを覚えとるわ。   (6/2 16:39:08)
〆鯖/火津彌 > 同時に、瑞穂姐さんに抱いていた複雑な気持ちが恥ずかしゅうて堪らんくてな。楼の中庭で蹲って泣いていると、同じ男である若い衆の一人が来て僕に言った。「そないに気ィ落としなや。良かったやねえか、瑞穂姐さんみたいなきれいどころに相手してもらえてよ。……まあ、あん人はな、気の毒な人なんや。男がおらんと生きていかれへん、そういう風に己を躾けんと、とうに気が触れてた思うで。」何を言っているのか当時の僕にはよう解らんかった。ただ、『それは狂っているとは言わないんやろうか。』と。子供ながらに不思議やった。   (6/2 16:39:30)
〆鯖/火津彌 > 僕の身請け先が決まったのは、それから直ぐの事やった。榮郷に総本社を置いている由緒のある社家、鬼灯稲荷の宮司が僕の父となるらしかった。紅玉楼を出る日は刻一刻と迫りつつも、静かな日々が過ぎていった。……平穏を切り裂く嵐が起こったのは、僕の七つの祝いの日……紅玉楼から帳簿が消えた日やった。帳簿だけではない、椿姐さんも、紅玉楼の、どこにもいなかった。遊女の足抜けはご法度、籠の外から出ることは許されず、見つかれば手酷い折檻は免れへん。それでも御職の椿姐さんに限ってそないな事が出来るはずもなく、楼に働く男達は血眼になって姐さんを捜した。僕も、じっとしていることが出来ずに、あの時中庭で声をかけてくれた若い衆、平八に付き添ってもらいながら姐さんを捜した。七つの祝い、魔除の為、振袖を纏い白髪綿をつけた女の姿のままで。 ーー姐さんは然程遠くには行っておらず、直ぐに見つかった。厘都にある、鬼灯稲荷の分社の境内にいた。   (6/2 16:39:46)
〆鯖/火津彌 > 「椿姐さん。」 振り向いた姐さんは、僕の姿を見て明らかにたじろいだ。僕もまた、姐さんの姿に動揺を覚えずにはおられんかった。夥しい尊華文字が書かれた巻物が本殿から鳥居に向かって絨毯のように敷かれ、椿姐さんはその上、鳥居の下に佇んでいて…何かとんでもない事をしでかそうとしているのは、幼かった僕の目から見ても瞭然やった。 「これは……。なんて事をしはったんですか。稲荷神社の境内で、なんて罰当たりな…!帳簿を盗んだのも、あんたですか!」 先に口を開いたのは、平八やった。 「平八。…帳簿……?これの事かえ?ふ、ふふ。そうや、こないに忌々しいもの、うちがこの場で燃やして消し炭にしたるわ。」 姐さんは僕の名前を呼ばなかった。懐から持ち出した帳簿をひらひらと見せながら煽る。その目は何かに取り憑かれたかのように正気ではない、妖しい光を宿していた。   (6/2 16:40:14)
〆鯖/火津彌 > 「……なんや、わからんっ…平八、これは、なんなん?椿姐さんは何をしたん?帳簿が忌々しいって、なんでなんっ……!」 切羽詰まった僕は平八に縋り着いた。不安からぎりりと歯を噛み締めるが、そこに鼈甲飴はなく、唇から血が滲んだ。 「月光、あれは椿やない。『こっくりさん』や。あの人はまじないを使って何かをしようとして、恐らくお狐様に取り憑かれた。文字と鳥居、これは…狐狗狸を呼ぶ術式や。帳簿は、……っ」 「お前は知らんでええ!」 平八の言葉を、椿姐さんが遮った。僕に知られたくないことって、なんや?椿姐さんが必死になって守ろうとしてはる、秘密?僕に見られたらまずい記録?ーー……幼かった僕の脳を劈くようにして、天啓に似た何ががぶわっと溢れた。いや、それはずっと考えてきた事。わからない方が愚かなくらいや。愚かやった、僕は。ーー穢れを疎む神官の家が、何故僕を身請けする?下賎な女郎の子である僕を。となれば、これしか考えられない。鬼灯の当主は単なる養父ではない、僕の父なのだ。そして、帳簿を見れば誰が母親かなんて、簡単にーー…………気づけば僕は椿姐さんの元へ転がるようにして駆け出していた。   (6/2 16:41:24)
〆鯖/火津彌 > 僕を静止しようと叫ぶ平八の声を無視して鳥居を潜り、ぽっくり下駄が巻物を踏む。刹那、燻っていた埋み火がボウと燃え上がるかのように、腹の底から湧き上がる激情。母さん、母さん、母さん、母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん!埋もれていた記憶の断片が引っ張り出される。まだ赤子だった頃の僕を抱き、子守唄を歌うその人の顔は靄がかかってわからない。だけど、それは僕の人生の中できっと最も幸福だった瞬間。そこに、僕の居場所はあった。呆気にとられている椿姐さんから帳簿をひったくり、それを口に加えて神木を登る。木登りなんてした事がないのに、何故か登ることができた。 「女、貴様の願いを聞き届けてやる。かわりに、この子は私が貰いうける。」 己の口から出た言葉は己のものでは無かった。ーー僕は、既に、僕ではなかった。ただ僕の奥底にあった感情だけが、激しく燃えているのが分かった。   (6/2 16:41:45)
〆鯖/火津彌 > 「……ああああお願い!この子だけは!」 はっと正気の眼差しを取り戻した椿姐さんの慟哭を無視して僕は、僕ではない何かは帳簿を開いた。鬼灯の相手をしたのは、僕の母さんは……。 「………ひひ、ひひひひ!けけけけけけけ!イヒヒヒヒヒ!傑作だ、傑作だァ!!!」 帳簿に書かれた文字を見て、僕に取り憑いた何かはつま先立ちをして絶叫した。可笑しくてたまらない。売女とは、なんと気味の悪い生き物なのだ。椿と瑞穂、両方が同じ客と寝ていたなんて!   (6/2 16:41:56)


〆鯖/火津彌 > 【この子の七つのお祝いに:中編】 「狐狗狸さん、狐狗狸さん、お帰りください、お帰りください!」 椿の金切り声が呪文を紡ぐ。彼女は魔術師ではないが、言葉に魔力が宿るということはこの世界の誰でも知っていることであり――源氏名という字を持つ遊女たちの間で奇妙な咒いが流行る事も多かった。しかし、必死の慟哭が神仙に届く事はなく。月光に取り憑いた狐狗狸は白髪綿を着けた少女の姿でゲラゲラと嗤った。鬼灯家は貴族、貴族が妾を何人も囲うのは珍しい事ではないし、ましてや遊女ともなれば……。しかし狐狗狸は狐狗狸としてではなく、幼い月光の感情に共鳴しながらその黒い埋み火を増幅させていたのだ。可笑しそうに帳簿をびりびりと千切り、神木の上から紙吹雪のようにはらはらと落としていく。空中でその紙切れに狐火が宿り、ぼう、ぼう、と次々に燃えた。   (6/3 03:35:49)
〆鯖/火津彌 > 「まずは貴様の望み通りに。忌々しき点鬼簿を燃してやろうとも!お次はどうすると言ったか?『あの女』を呪い殺すか?それともこの小僧にするか?狐狗狸は見ていたぞ、全部見ていたぞ。篝火の燃えるところ、気色の悪い廃工場の煙突、売女の吐いた煙管の一筋。この厘都に揺蕩う全ての煙となってな……イヒヒヒヒヒヒヒ!!」 今思えば狐狗狸の言葉が全て、本当の事かどうかなど図りようのないものだった。ただ月光が何かしらの催眠状態に罹っていたと言えば、それも証明しようがない。今となっては彼自身、記憶は薄らあれどこの時の気持ちなど覚えていないのだから。 「この子の、この子の髪の毛一本誰にもやりませぬ!誰にも!」 「だから神聖なる境内で忌々しい咒いを起こし、鬼灯を呪わんとした!女、神仙に楯突く恥ずべき行いにくれてやる慈悲など無いのだよ!」 「ああああどうか、どうかこの子だけは……!」 「貴様が執心しているのは」 「言わないで!」 「この小僧ではない!」 「お願い!」 「この小僧は貴様の娘ではないのだよ、貴様の人形ではないのだよ、貴様が望んだ幸せはひとつもひとつも叶わぬのだよ、けけけけけけけ!」 「………ああっ……!」   (6/3 03:36:37)
〆鯖/火津彌 > 首と腰と膝とをつづらに折って地に蹲い、髪を掻きむしりながら咽ぶ椿を見て、狐狗狸はもんどり打って嗤った。神木から真っ逆さま、その身体が墜落する。 椿の四肢は歪にくねりながら徘徊り、投げ出された少女の姿に近寄った。嗚咽しながら力なく抱き締め、頬にそっと掌を寄せて囁いた。 「あぁ、あぁっ…堪忍、堪忍え。……———み、づき………」   (6/3 03:37:30)
〆鯖/火津彌 > そこから月光の記憶はぷっつりと途切れている。後から訊いた話によれば、いつのまにか居なくなっていた平八は知っている魔術師を呼びに行ったのだという。月光の母親についての謎は、つまりこういう訳である。嫡子に恵まれなかった鬼灯家当主・月弓(ツクヨミ)は、榮郷を離れ厘都を閨とした。貴族の政略的結婚により娶った妻は子を成せないからといってどうすることも出来ず、養子をとるしかないと考えた。しかし、どうしても鬼灯の血筋は必要不可欠だったのだ。瑞穂と椿は遊女でありながら月弓を愛し、ほぼ同時に子を宿した。そして椿は女児を流し、瑞穂は男児を産んだ。月弓が密かに愛したのは、椿の方だった。寵愛を受けることの出来なかった瑞穂は月光に月弓の姿を、子を産むことの出来なかった椿は月光に娘の姿をそれぞれ重ねていたのだった。 椿がこの後どうなったか、詳しくは知らされていない。 ただ、この時に————死んだと。それだけである。   (6/3 03:37:47)
〆鯖/火津彌 > ((蛇足で豪快なネタバレをば。椿姐さんを殺したのはもちろん狐に取り憑かれたほづみんです。そしてこの時助けにきてくれた魔術師はぱぱだったりします。ほづみんは知らない(知らないふりをしてる?)事ですが、ぱぱは愛した椿を殺したほづみんに、狐のせいとはいえ複雑な感情を抱いていることでしょうなぁ   (6/3 03:39:15)


〆鯖/火津彌 > 【この子の七つのお祝いに:後編】 あれ以来、僕は狐につままれたまま。今や人は僕を魔術師と言うが、正味な話、そんな大層なもんやない。守護神でもなんでもない、あの日から、僕は——取り憑かれたままなんやと、思ってる。時々、自分が自分でないくらいに感情の抑えが利かなくなる事がある。燻るようにぱちぱちと腹の芯を蝕み、気が付けば発作的な憤激に変わって僕の人格を蝕もうとする呪い。もしかすればもうすでに、成り代わってしまっているのかもしれない。癇癪のような赫怒や度を失いそうになる悔恨。やるせなさ。その全てが既に僕の心に染みつき、僕の人格そのものとなっているのかも、しれない。 ……その後帝都榮郷の鬼灯神社にて迎え入れられた僕は、稲荷信仰の呑み込みの速さと炎の魔術適正の高さに、周囲を戦かせる程度には才覚を顕した。この家の誰も、ほめてはくれなかったが。皮肉めいたぎらぎらとした嫌味や負け惜しみが、僕を孤立たらしめた。 褒めてくれたのは、瑞穂姐さん、ただ一人やった。   (6/4 23:49:40)
〆鯖/火津彌 > 「姐さん、どうして榮郷に……いや、どうしてここに。」 鬼灯邸に姿を現した姐さんは、人が変わったようににこにこしていて。榊の木の垣の中にある裏庭の木戸越しに、僕らは再会を果たした。 「月光、おまえが優秀やから旦那様が紅玉楼に出資して下さったのや。お陰で榮郷に遷る事が出来そうでなぁ。……ほんまにええ子。孝行な子。」 今でこそ、思い返せば笑ってしまう。そんな訳があるはずもなく、おそらくそれは口止め料のようなものだったんやろうに。それを移転資金に充てるとは……紅玉楼の狸親父もかなり周到に根回しをして決行したんやろう。最初から椿などという御職女郎はおらんかった。榮郷なら、そう言い張る事ができるから。 「……ねえ、さん…あの、ここじゃ…人目が。」 もじもじと落ち着きのない様子で僕は言った。鬼灯の屋敷を出て、どこかで話をしたかった。椿姐さんのこと、帳簿のこと、鬼灯家のこと。あなたと僕のこと。決して疾しい期待をしていた訳ではない…断じて、本当に。姐さんがその気なら…と、頭を掠めない訳では無かったけれど。   (6/4 23:50:05)
〆鯖/火津彌 > 「月光や。……月弓さまを、いや…鬼灯の旦那さまを。……呼んできてはくれんかえ。こっそり…こっそりな。」 やけど、もう。椿姐さんもその娘もいなくなったこの世界で、どうやら僕など……姐さんの眼中にはなかったらしい。え、と声を漏らし、旦那さまともあろう人を簡単に連れてこれるかどうかはわからない、と口籠る。それでもええから、お願いと甘える姐さんに根負けして、結局は月弓その人を裏庭に呼んだ。「みず……いえ、女の人が、その。父上にお目もじしたいと言うてはりますが…」そう口にしただけで、焦ったように彼は裏庭に飛び出した。後をつけてでも二人の会話を聴きたかったけれど、僕は榊の垣根をついぞ越える事は出来なくて。鬼灯神社の中に夥しくある境内摂社のうちの一つ、常音狐を祀る祠の鳥居の下で、膝を抱えてすすり泣いた。 「つきみつ、いかないのか。」 小さな管狐がするりと僕の背中に絡みつき、声を掛けた。もう神仙の声を聴くことは出来ないが、幼少の砌はこういう不思議なことが時々あった。   (6/4 23:50:59)
〆鯖/火津彌 > 「いくって、……う、ぐっ……どっ……ひっ、く。ど、こに。」 「たぶん、つくよみはみずほをふる。そして、みずほはものすごくあれる。つねねは、つくよみのそばでみてきたからわかる。」 「……荒れる?」 「うん、いのちをたつかもしれない」 「姐さんが?自殺を?」 「そのくらいですめばいい。いっしょにしのうとするかも。」 「…父上と……か?」 「……。」 常音はその頬と僕の頬を擦り付けるようにして頬ずりをした後、瑞穂姐さんについて話してくれた。彼女が少しおかしかったのは、何も父上からの寵愛を受ける事が出来なかったせいではない。恐らくは女郎という生業に従事しながら自我を保っていられるほど、元々強い人ではなかったのやろう。聞けば聞くほど、気の毒で、かわいそうで。彼女がかあさんなのかもしれないと思えばこそ、余計にたまらなくて。幼い僕の心を締め付ける種火のような感情がまた、呪いやろうか……大きな炎にのまれていった。   (6/4 23:51:30)
〆鯖/火津彌 > 「……ねえさん、ねえさんっ。」 花街がどこにあるか突き止めるなんて、妓楼育ちの僕にかかれば造作もないことやった。より明るく暗い方へ、より煩く静かなほうへ、より香り立ち、匂う方へ。赤い柱をくぐって、榮郷の花街——その敷地内に生まれて初めて足を踏み入れた。坊主には早いなどと声でも掛けられようものなら、言うてやるつもりや。僕は紅玉楼の月光や、厘都一の妓楼を知らんのか、モグリめ、榮郷の成り上がりが。……姐さんはやっぱりそこにいた。少し奥まった路地に立ち尽くして、呆けて。泣き腫らした顔で僕を見つけるなり駆け寄って、腕の中に隠すように抱き締めた。 「……月光っ、あぁ、月光。やっぱりうちにはお前しかおらへん。お前に逢いたくて、うちはわざわざ榮郷に下ったのやで。もう離さへん、離さへんからな。」 どう考えても都合のいい甘言やのに。どうしてか、必死でしゃくりあげながらそう言葉にする姐さんを見ていると嘘を言っているようには到底思えなくて。   (6/4 23:52:13)
〆鯖/火津彌 > ……この人もきっと、自分が自分でなくなるような感情の渦に翻弄されているだけに過ぎないのやろう。己を重ね合わせて、この時ようやく僕は姉さんを畏怖の対象ではなく、一人の人間として見ることが出来た。女とは、なんて弱い生き物なんやろうか。なんて愚かで、愛しい生き物なんやろう。 「あぁ、月光。ええ男に、なったなぁ。」 頬に掌を添えて、涙に濡れた瞳でうっとりとそう呟く姐さんを見上げた。厘都を出てまだ二年も経ってはおらんかったけれど、あなたの言う通り、あの時は精通すらしていなかった僕の身体は、色々な分化を終えていた。僕は、姐さんの手首を掴んで顔から引き離すと、震えた声で、ずっと言いたかった、呼びたかったものを呼ぶ。 「……僕は、もうすぐ九つになります。あなたを、抱ける身体になりました。やけど、もう、そんな事をしなくてもええんです。そんなことをしなくても…っ、股を開かなくても、あなたは……生きていてええんです。……母さん。」   (6/4 23:53:01)
〆鯖/火津彌 > あなたは、子供でしかなかった僕を男にしてくれた。今度は僕が、女でしかないあなたを……母にしてやる。 七つまでは神のうち、なれば、あなたはた、だ、神とまぐわっただけに過ぎないのです。 いつのまにかぽつぽつと降り始めた雨が僕らを濡らしている。母さんは空を仰いで、絞り出すような声で呟いた。 「狐の嫁入り…あぁ、狐ですら、祝言を挙げられるのに…———」   (6/4 23:53:17)
〆鯖/火津彌 > その後、何日か経って父上と顔を合わせる事があった。母さんの話題など微塵も出さずに、彼は、まるで話題に困ったように僕の魔術の才を称えた。 「そろそろ、お前も屋敷を出てみるか。本格的に魔術師になるならば、もう人前で月光とは呼べんな。……どんな字をつけた?聞いておこうか。」 今更になってようやく。これまで僕の字すらも知らなかったのか、あんたは。……それならば教えてやる、これは、僕の精一杯の意趣返しや。 「火津彌と申します。父上。」 一瞬の停止を、僕は見逃さなかった。生粋の貴族であるあなたが、こんな皮肉に気付かぬはずはありませんやろ? 「……穂積、火津彌か。うん、実に鬼灯らしい字や。実る瑞穂が積まれる程の五穀豊穣。お前も、それ程の魔術師になるという事だな。」 「はい。」 全く動じることなく切り替えされた言葉。僕のほうも、怖気ることなく、即答してやった。その後の沈黙に耐えかねて部屋を出たのは、あんたのほうやった。 ——勝った。そう、思った。   (6/4 23:53:41)
〆鯖/火津彌 > 8月の盆。鬼灯神社では死者の霊を弔う、灯篭流しが開かれた。狐と炎を信仰する神官たちが呪文を詠唱し、灯篭に火を灯してゆくのはここならではの風物詩。僕もその一員に駆り出され、白い着物に袴を履いて神事に加わっていた。 「———七回忌にはずいぶん、遅くなってしまった。」 誰にも聞こえぬように小さく呟き、こっそりと袂に入れていた一つの折り鶴と鼈甲飴を取り出して。灯篭の中にそれを入れて、水の上へちゃぷ、と浮かせた。 「小さき不知火よ、いざ給へ。」 火が灯ると、灯篭はゆっくりと流れていった。僕の後に産まれるはずやった椿姐さんの子。僕の妹。『厘都にたゆたうすべての煙となって見ていた』のは、もしかしたらお前だったのか? この子の七つの弔いに。 お前の母さんが好きだった鼈甲飴を贈ろう。   (6/4 23:54:08)