この世界では、”言葉”が魔力を持つ。

命の水-発症-

(梟)

「(日は沈み、次第に夜の群れが空を食い尽くす頃。街並みには闇が落ち、人並みもばったりと途絶えていた。日中よりも肌寒く、遠くの軒先でゆらりと揺れるランタンの火や、路地裏の先の見えない闇に、すーっと神経がひとつの所に凝固してしまう、そんな不気味さを梟は感じていた。じとっと濡れる地面はそんな火の光をぬらぬらと反射し、先程まで雨が降っていた事を教えている。先程にわか雨に見舞われた彼は、ぐっしょりと濡れたシャツが胸元にピッタリと張り付き、ひたひたに水で太らせた、絞る前の雑巾のように水を滴らせていた。今日は1日、ほとほと運がない。まるで曇り空を一纏めにして飲み込んでしまったような気分だ。だが、そんな1日も終わりを告げようとしている。風呂に入り、酒を仰ぎ、煙草を吸って床につく。いつもと何ら変わらない生活。否応なく来る明日の労働を憂鬱に思いながらも、重い足に鞭を打つように、せっせと漕ぎあげ兵舎への帰路を急いでいた。──何も変哲のない、そうあるはずだった。彼が内から迫りくる不可解な迸りに気付くまでは。)」「(どれだけ、時間が経っただろうか。数分か、数時間か。はたまた数日か。フラフラと、異質な目眩に意識を侵されながら、兵舎へとたどり着く。ばたん、と仰向けに倒れ込んだ彼の足は、既に糸を失った操り人形のように、棒切れが如く言うことを聞いてはくれない。酷く乾いた喉を癒そうと、水瓶に顔を突っ込んでは、それを一滴残さず飲み干してしまった。どくどくと煩い心臓は狂ったように早鐘を打ち、血液はダムが決壊したかのようなスピードで全身を駆け回る。空気が凍りつき、緊迫感が色味を帯びて世界を圧迫した。ぐにゃりと眼の前のベッドはひしゃげ、グルグルと回転する天井。チカチカとカラフルに点滅する視界は、まるで玉虫色の意識の中に飛び込んでしまったかのようだ。そして、わけも分からぬまま内から湧き出る大なる多幸感が、彼と乱暴に肩を組み、それは彼の恥や憂鬱、絶望感なんていう感情を、尽く切り裂いていった。その瞬間どうにも、この世界の事がどうでも良くなって、次第に表情には蕩けた笑みが浮かび始めた。)──ひ、は……みんな、みんな死んだ、へっ、はは……はは……(彼の思考は、既に幸福感に支配され尽くしていた。その思考に紛れるのは、戦地で共に戦った、今は亡き同志達。路地裏で刺殺された父親や、見る影もなくやせ細って死んだ母親の姿。みんな死んだ。みんな死んでしまった。俺一人を残して、彼を友と呼ぶものが。みんな、天国へ行ってしまった。──ならば、俺も、行かなければ。そうだ、こんな所で生きている場合ではない、早くみんなと会いたい。会いたい。会って話しがしたい。会って笑いたい。会って共に過ごしたい。それが出来れば、きっともっと幸せだ。みんな空の上にいるんだろうか。そう考えると、うきうきと、心が踊るようだ。きっと喜ぶ赤子のように笑ってしまう。)……はや、く。はやく……(ふらついた彼は、その棒切れのような足でやっと立ち上がる。まるで墓から這い出たアンデットのように、覚束無い足取りでベッドへ座ると、めきめきと、彼の手のひらから、氷が出来上がる。幾千という針を、風呂いっぱいに貯めて、そこへ飛びんでしまったかのような鋭い痺れと痛みが全身を襲うが、そんな事は関係ない。出来上がったのはひとつのつららだった。それを、まるで恋人を見るような恍惚とした表情で眺め、にたりと口元が緩む。歯止めの効かなくなった彼の魔法は、つららを作るだけでは飽き足らず、床や壁に、そして自身にさえ疎らに氷を纏わせる。腕や足に薄くまとわりついた氷は皮膚を切り裂き、滴り落ちた血液は氷へと取り込まれていった。そうして、出来上がったのは薄赤に染まった氷の一室だ。そんな光景も、今は不思議と美しく見える。それを、味わうよう、舐めるようにぐるりと見回せばいよいよだ。その尖りきったつららを、ゆっくりと腹部へ押し当てた。腹の皮膚を切り裂き、どんどん深部へ。つららが根元まで刺さる頃、『紅翼の蒼』は高らかに、酷く楽しそうに、狂った様子で笑っていた。」

命の水-治療成功-(梟&咲夜) に続く。